たそがれさんに鍋割山のコメントを返答しながら考えたこと。

たそがれさん達の登山記録ばかり見ているせいで忘れがちになるが僕の登山観は一般とはずれていると感じる時がある。
後輩達と話していると確実に登山道外を歩くのは避けたがり、それは藪のあるなし危険箇所のあるなしとも関係ないようだ。未知なる箇所を歩くだけで不安だという。たぶん後輩達の感覚が一般的なのだとは思う。
よく歩かれる登山道は整備されており危険も少なく歩きやすい。雪山でもなければまあ基本的には怪我なく帰れるだろうし人気のところは景色が良いかアクセスが良い。
安全に登り安全に良い景色を見て安全に帰る。次にどんな道があるかもわかっている。何も問題はない。

しかし僕はどうにもそれでは満足できないことがこの数ヶ月でわかってしまった。

まず僕の登山の原点を考えるに、それは山好きの両親と小さい頃から簡単な山やキャンプに連れて行ってもらった思い出、中学時代辺りでは父親に連れられアルプス縦走に出かけたりしたことだと思う。
楽しい思い出なのに高校以降ずっと山に行かなかったのは子供の頃は家族と遠出することが楽しくて登山はその一環であり、あくまで連れて行ってもらう立場、自分が主体ではなかったがために本気で山にハマっていなかったからだ。大学でもワンゲル部などに見向きもしなかったし、2年前M崎君から谷川岳に誘われた時も面倒で断った。

去年友人との富士山登山をきっかけに登山を再会した時、最初の原動力はあまりに体力がない自分への不甲斐なさだった。
富士山の後に登山を続けたのは揃えた道具を無駄にしたくないのとここでやめたら体力が落ちるという思いが強かったからだと思う。

転機はやはり初めて登山道を外れて足尾から社山に登った時だ。あのルートは登山道ではないとはいえわりと歩かれていて難易度も高くない。他人様の歩きの丸パクリで人の記事を見てなんとなく道中の様子も分かっていた。
それでも初めて歩く登山道外の山は新鮮でススキを掻き分けて腕に穂がまとわりついたり笹の斜面は登りにくかったり本来歓迎すべきではない箇所もそれを越えて先に行くのが嬉しくて楽しくて、なんだ登山道に束縛されて窮屈な歩きをする必要なんてどこにもないんだと気づき、中禅寺湖を見下ろしながら世界が無限に広がった気がした。
これで僕の登山の方向性が決まった。

その後は登山道外とはいえ人の歩いたルートを真似したりもするが、部分的とはいえ検索してみて人が歩いた記録が見つからない尾根達を地形図を見ながら考え僕だけのルートをなんとかして編み出そうとしている時が一番楽しい。実際のところ僕でも歩ける程度であれば誰も人が踏み入れたことのない尾根なんかあるはずはない。植林地帯ならばなおさら。ただ、検索して記録が見つからない時点でほとんどの人が歩いたことがないわけでそんなところに何があるのかを考えるとじっとなんてしていられない。景色が良いところがあればなお良いが景色が悪くたって藪があったって未知なる場所を歩いている、このワクワク感があれば足は勝手に前へ進んでいく。

人の記事を見て地形図を眺めて、その度にもしかしてこことここを繋げたらもっと面白い歩きができるんじゃないかと考える。福島の山奥、アクセスも悪く藪が酷いため残雪期に歩いた記録がなんとか数点見つかったり、そもそも登山記録がない山なんかを地形図で見つけたりすると、どこにも見つからない夏の景色に思いを馳せてどうにかしていけないものかと激藪を越える方法を考えたりしている。
車で山頂近くまでいける栃木百名山の山だって道のない南西斜面から登ったら面白いんじゃないかって考えている。
暖かくなったら奥袈裟丸山の西尾根は速攻で行きたいし、錫ヶ岳も別のルートがあるんじゃないかって定期的に地形図や色んな記事を見ている。

行きたい山のストックは増えるばかりで寒くて日光・足尾にいけないのがもどかしい。
雪山も楽しみだけど本音を言えば今すぐだって山深い場所に佇むシャクナゲさんに会いに行きたいのだ。

登山に限ったことではないけれど自発的にこれをやりたいって思うのが一番だと思う。僕が選んだ山に僕が決めたルートで登りそこに何があるかをこの目で確かめる。忘れないためにブログに記録を残すけれど、その全てを見て触れて感じてきたのは僕だけで、それがとても愉快で仕方ない。

なんでこんなところ来てしまったかなあと思うこともよくあるけれど、終わってみればそれもいい思い出で。初めて自分の意思で登山道の外に出た時の想いを忘れない間はきっと毎週山に行き続けてしまうんだろう。