話は五月に遡る。
GWに帰省した際、父と鈴鹿の釈迦ヶ岳に登った。
http://blogs.yahoo.co.jp/fu32miffy/37170011.html
この時下りで猫谷というところを通ったのだがそこの沢には明治の時代に築かれた石の堰堤があった。僕は特に気にも留めなかったからブログにも書かなかったが父がデ・レーケがどうのこうのと言っていたのだけは覚えている。

ヨハネス・デ・レーケ。オランダ人の土木技師で明治時代に日本にやってきて治水事業に携わった人物らしいということを後で知った。
僕の地元では馴染み深い木曽三川分流計画にも深くかかわっており関係した土木構造物は日本全国に今日も残っているという。
彼は氾濫を繰り返す河川を治めるため、放水路や分流の工事を行うだけでなく、根本的な予防策として水源山地における砂防や治山の工事を体系づけたらしい。
僕が猫谷で見た石の堰堤も砂防対策の一環だったようだ。そういえばハトの峰は禿げ山だった。

デ・レーケの指導した石の堰堤はその構造に特徴があるらしいが僕には特徴はよくわからない。だから砂防とか護岸用の石堰堤を見るとデ・レーケが関係しているのかなと思ってしまう。

そこで日曜に僕が足尾の山奥、上桐久保沢で見た石畳である。
950mくらいでみたやつ
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沢の中ではあるが砂防堰堤というにはあまりにしょぼい・・。
でも足尾がもっとハゲ山だった時は防げた土砂があったのかも?

1100mくらいから始まる石畳ロードの末端と拡大図。
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ここからずっと数十mくらい急傾斜の石畳が続いていく。
上から見て末端が見えないくらい。
正直こんな長いのは砂防堰堤ではないとは思うのだが土砂を防ぐのに役立ったかもしれないし・・。

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一旦途切れてまた続いて。これだけ長いと瀑泉さんの運搬路説もありかなあ・・。
でも傾斜あるしなあと答えは出ない。

1200m上にしばらく登っていくと石畳は消える。
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コメントを頂いた方々もこんな妙な所は歩いていないようなので実物を見たのは僕だけ。だから運搬路なのか護岸・砂防用のためなのか石畳の正体は分からない。いつ作られたものなのかも不明である。
足尾の砂防・治水工事にデ・レーケが関わったという事実は適当に検索しても見つからない。だから彼はきっとこんな石畳見てないないだろう。
けれど治水の基本は水源産地の砂防や治山にあると考えていた人物のようだから、その精神と工事技術が受け継がれ、足尾のこんな山奥にもその遺構が残っているのだとしたら面白い。だから僕は運搬路より砂防・護岸関係の物であってほしいかなと思う。
足尾の山奥でこの石畳達を見つけた時、遠く離ている父と歩いた鈴鹿の山が何故か近くに感じられたような気がしたのだ。
まあ真実は、藪の中なのだが。